(後半)
…ガルトゥング氏によって提起された「専守防衛」の議論に触れたことで、かつて西部邁氏が『核武装論 当たり前の話をしようではないか』(注5)で展開した議論を思い出しました。
西部邁氏は、『核武装論』で次のように論じています。
「『核』はあくまで報復につかわれるべきものです。より正確にいうと、報復を予告しておくことによって相手からの先制核を防ぐ、それが自衛報復核の存在理由です」「(『核』を予防的先制に用いることは許されないとの)考えの根本にあるのは、相手の状況にかんする当方の予測はフォリブルである、つまり間違っている可能性がある、という認識です。それへの副次的な認識もあって、相手の(『核』による)侵略は、たとえその準備がなされていたとしても、実行に至るとはかぎらない、という点も無視できません。そのような場合、予防的先制(としての自衛)の核攻撃は、事前的には正当とみなされても、事後的には回復不可能な大被害を相手に与えてしまうでしょう」
日本防衛の手段として「核」に対するスタンス─ガルトゥング氏は「核保有」を否定しており、西部邁氏は「核武装」すべきであると論じている─が異なり、ガルトゥング氏が「専守防衛」を選択すべきであるとしているのに対して、西部邁氏が『核武装論』で提起している「防衛のあり方」は「長距離兵器の保有と核武装」に相当します。
「攻撃と防衛から成る軍事的安全保障戦略の4類型」のうち、ガルトゥング氏が「専守防衛(防衛的防衛)」のみを容認しているのに対して、西部邁氏が提起する「核武装論」は「専守防衛(防衛的防衛)」に加えて「攻撃的防衛」(但し、予防的先制は否定し、報復の手段に限定している)を手段の一つとして含んでいると考えられるなど、日本防衛に関する考え方は両者の間で大きく異なります。
一見すると、ガルトゥング氏と西部邁氏は「日本の防衛のあり方」を巡って対極に位置しており、相容れることがないようにも思えますが、両者ともに「人間は間違う可能性がある」という「人間の可謬性」を前提とし、予防的なものも含んで先制攻撃を否定しているところが共通しています。
詳細については、また機会を改めて論じてみたいと考えておりますが、現在、我が国を覆い尽くしている「防衛・安全保障については米国に任せておけばよい」とする「対米従属」を無批判に受け入れて肯定する議論や沖縄に蔓延している「絶対平和主義」に基づく「平和論」と、西部邁氏が提起する「核武装論」との間の距離は、とてつもなく遠く離れていると看做して間違いありません。その一方で、ガルトゥング氏の「平和学」と西部邁氏の「核武装論」と間の距離はかなり近接しているものと思えます。
ガルトゥング氏の「平和学」は、極めて現実的な「防衛・安全保障体制の構築」を提起しようとしていると言えるのです。
「領土問題はゼロサム・ゲームではない」との認識を共有できるのか
『日本人のための平和論』を素材にして、ガルトゥング氏が提起する「平和学」について考察してきました。これまでは、どちらかと言えば、「平和学」の肯定的に評価できる部分を取り上げてきましたが、当然のことながら、ガルトゥング氏が提起する「平和」を構築するための戦略を手放しで全て受け入れることができる訳ではありません。
例えば、同書で「領土問題」を論じているパートで、我が国が抱える領土問題である尖閣諸島と北方四島について「解決のための発想の転換が必要である」として、それぞれ実行可能な解決策として「日本と中国が尖閣諸島を共同所有すること」と「日本とロシアが共同で(排他的経済水域を含めて)北方四島を管理すること」を提案しています。
かなり魅力的な提案であると思えなくもないですが、この提案が成立するためには当事者─日本と中国、日本とロシア─が双方ともに「領土問題はゼロサム・ゲームではない」との認識を共有している場合に限られます。
仮に、ある領土を巡って、当方が「ゼロサム・ゲームではない」と認識して「共同所有」や「通行の自由」を確立しようとした場合、相手方が「ゼロサム・ゲームである」と認識していたら、領土を巡る全ての利得を相手方に奪われてしまう可能性を否定することができません。逆もまた然りであり、相手方が「ゼロサム・ゲームではない」と認識し、当方が「ゼロサム・ゲームである」と認識していた場合に、当方の「領土を巡る利得」を最大化することが可能となります。
すなわち、ガルトゥング氏の提案を実現するためには、当事者双方の間で「領土問題」は「ゼロサム・ゲームではない」との共通認識が成立し、信頼関係が構築されていることが前提となりますが、その共通認識や信頼関係を成り立たせること自体が極めて難しいことであり、世界中で解決が困難な「領土問題」が存在し続けていることが、図らずもそのことを証明しているように思えます。
「領土問題」を巡っては、ガルトゥング氏が掲げる「理想」自体を否定することはできませんが、その実現までの道程は極めて厳しいものであると看做さざるを得ません。ガルトゥング氏がこの世を去ってしまった現在、「領土問題」は私たちに遺された極めて難しい課題であると言えるのでしょう。
「平和主義者」たちによる「平和学」の恣意的な利用を許してはならない
ヨハン・ガルトゥング氏の訃報を受けた後の沖縄の言論空間では、沖縄の平和主義者たちが「平和学の父」としてのガルトゥング氏を、自分たちの「平和運動」の精神的な礎として崇め奉っているかのような言説が見受けられました。
しかしながら、『日本人のための平和論』で展開された議論からも明らかですが、ガルトゥング氏の「平和学」は、沖縄に蔓延る非現実的な「絶対平和主義者」が語る「夢物語」とは一線を画すものであり、彼らの「夢物語」に理論的な裏付けを提供するものではありません。その著作を虚心坦懐に読めば、そのことに気づかないはずがありません。
沖縄の、いわゆる「平和主義者」たちは、ガルトゥング氏が「沖縄から米軍基地を無くすべきである」と明言していたことから、「平和学」を自らの主張にとって都合が良いものと受けとめ、それを利用するためにガルトゥング氏の「遺志を受け継ぐ」などと語り、崇め奉っているのではないのかという疑いを払拭することができません。
彼らは、「平和学の父」ガルトゥング氏の言説を(意図的に?)誤読・曲解し、恣意的な読み方をしている、もしくは、自分たちの主張に「都合の良い部分」と「都合の悪い部分」とに切り分けて選別し、前者だけを利用し、後者を無視しているということなのではないかという想像してしまいます。
このような平和主義者たちの振る舞いは、「沖縄の未来」を案じて、たびたび現地を訪れ、日本と沖縄のために「平和学」を説いてくれた「平和学の父」に対する非礼であり、これほど失礼な振る舞いはないように思えます。
非現実的な「夢物語」に耽る平和主義者による「平和学」の恣意的な利用を許すのではなく、我が国にとって現実的な「防衛・安全保障体制の構築」を目指す者こそ、ガルトゥング氏の「平和学」を学び、その知見を活用していかなければなりません。
極めて個人的なことですが、これまで過てる先入観によって、ガルトゥング氏の「平和学」を敬して遠ざけてしまっていたことが悔やまれます。
遅ればせながら、「平和学」を学んでみようと思っているところです。
(藤原昌樹)