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World Get Punished. People Get Wired.

Z世代は「これまでの日本」を見捨てる・その2~なんちゃって政治、なんちゃって民主主義、なんちゃって近代的価値観


河東 哲夫(外交評論家、元在ロシア大使館公使、元在ウズベキスタン・タジキスタン大使)

「Z世代は『これまでの日本』を見捨てる・その1~この国いまだに蝕む明治以来ほったらかしの『ねじれ』の数々」で見てきたように、近代国家発足以来の多くの矛盾を解消しないまま日本は走ってきた。そのために生じた世界に比べて著しい停滞社会を若い世代は見捨てようとしているのか。

現実から遊離した日本国家主義とマルクシズム

戦後の米ソ対立は、日本社会に「保守・革新」という、現実から少し遊離した不毛の対立をもたらした。

by Gettyimages

一つは、戦前、インテリが移入したマルクシズムを旗に、既存の体制を否定する「革新」勢力の存在だ。戦後日本の言論界・学界は、マルクシズムを奉ずる者が一時は主流をなし、現実とは遊離した歴史観、国際情勢分析、経済分析を広めた。それでもマルクシズムを掲げる野党への支持は一定数を超えることがなく、そのため戦後の日本では長い間、自民党による長期単独支配が続くこととなった。

一方、一部のマスコミは、革新勢力の唱えるユートピア平和主義に傾いた報道を続けることで自主防衛力の増強を妨げ、結局は対米依存を余儀なくさせるという、米国に実質的に甘えた構造を助長した。大学の経済学部はマルクス主義経済学の専門家達が教授職を独占したため、数理経済分析で日本は後れを取った。

戦争、と言うか敗戦は、もう一つのねじれも生んでいる。第2次大戦前の日本の対外拡張を正しいものとし、天皇を頭にする立憲専制の復活を夢見る国家主義の存在だ。これは人数的にはごく少数なのだが、独善的で民主主義にはそぐわない。そして彼らは本来は、日本を絨毯爆撃し、原爆まで落として屈服させた米国に反抗するべきなのに、それをしない。ねじれている。

フィクションとしての民主主義・政党・選挙

今、日本で、自民党のウラガネ問題が大きくなっている。これは、政党・選挙といった民主主義の大道具が、日本では絵に描いた書き割りでしかない「何ちゃって民主主義」であることを示す。

歴史を振り返る。英米の議会と違って、日本の国会は西欧から移入されたシステムだ。戦後米軍が押し付けてきたものではなく、1890年、明治の帝国憲法で設立され、1925年には成人男子の全てに投票権が認められ、軍部が台頭してくる前には、「大正デモクラシー」と称せられる、政党政治の時代もあった。戦後、米占領軍は選挙権を女性に与えて、選挙の基数を一挙に倍増させた。

しかし投票権のベースが大きくなればなる程、民主主義を貫くのは難しくなる。と言うのは、人々は自分の生活で手いっぱいで、町内会の仕事すら避けるくらいだから、国家のことまで考えている余裕はない。消費税、年金、医療費以外のことは、国会・政府で適当にやってくれればいい、となりがちだ。

政党・議員も選挙民を一人一人訪問して話し込む時間はない。それに、戸別訪問は公職選挙法で禁止されている。だからどこかの国や人物を悪者に仕立てるとか、減税や何とか手当て支給の約束で、大衆の票を取ろうとする。これはもはや民主主義ではなく、ポピュリズム、悪くするとファシズムになる。

そして政党や候補者は、建設・輸送・医療・農業など、力は以前より弱くなったと言っても、侮れない集票力を持つ業界団体、労組、そして地元の県議、市議に票集めを依頼する。そこでは賄賂を渡さなくても、宣伝費、交通費、人件費等は払わなくてはならない。それについて法律が厳しすぎれば、ウラガネで対処する。それが今回のウラガネ問題の根っこだ。

インターネットやYouTubeで政策・政見を公表すれば、それで十分ではないかと言う人もいるが、そんなものを丹念に見て回る人間は滅多にいない。「選挙」という制度には無理があるのだ。

米国では選挙と称するものがやたら多い。移民国なので、選挙で皆の賛同を得たということが、決定を正当化するからだろう。筆者は米国の大学を卒業したが、50年経った今でも、筆者の自宅には、大学理事会の理事選挙の投票用紙が送られてくる。候補者についての詳しい情報もつけて。何も知らず、知ろうともしない者に投票用紙を送ってくるのは無責任だし、カネの無駄遣いだと思うのだが、大学にとっては「選挙の結果○○氏が第××期の理事に選ばれました」と書かないとかっこうがつかないので、これしかないのだろう。

かくて、選挙という近代民主主義の華は、その実効性が大いに怪しいものになっている。ここまでしてできている国会に意味はあるのか? 政府の役人が作り上げた法案を審議・採択することで、国民の審査を受けたということにできるからか? そんなことなら、今ではAIを使って、効率よく、安価にできるのではないか。問題は、政府の役人が書き上げたあらゆる法案、決定に意見表明するだけの暇を持った人間はめったにいない、ということだ。国会では一会期、つまり半年の間に百を越える法案を審議・採択している。その中には「特定土砂等の管理に関する法律案」など、国民の多くが関心を持たない問題もある。「国会などいらない。インターネットで国民投票すればいい」というように、簡単にはいかないのだ。

Z世代に捨てられる、これまでの日本

この頃の日本を見ていると、凍ったオリーブ油を冷蔵庫から出した時のように、縁からじわじわ融け始めている感がある。電車や街で見る学生・生徒は制服姿で昔通り。自分を囲む体制の中で安心しきっているが、スタート・アップの立ち上げ、国際NGOへの参加など、目を見張るような自主性と能力を示す連中も出てきている。

今までの常識はどんどん壊されてきた。東大法学部卒業で大銀行や企業の幹部、あるいは国家公務員というキャリア・パスはもう廃れつつある。社会の中での格付けが変わってきたというのか、若者は「意味があるのか、ないのか。面白いか、どうか」でキャリアを選ぶ者が増えているようだ。もちろん、3年生の時から就活に奔走して、これまでの日本に組み込まれていく方が大多数だろうが、先端部分は溶融してきたのである。

東大法学部は近年では定員割れ。学生は筆者に相談してきて、「外務省と日銀と外資とどれに行こうか迷っているんですが」と言う。その外務省や他の省庁では、ヘッド・ハンターが暗躍していることもあって、入省して10年も経たないうちに見切りをつけて外資などに転職していく者が危機的な数に達している。企業でも、戦後の滅私奉公を助長してきた終身雇用制は溶融しつつある。

そして戦後の日本人を洗脳してきた大マスコミも今、インターネット、YouTubeとの競争にさらされて存続の危機に立っている。グーテンベルクの活版印刷技術をベースとした新聞・雑誌は今、インターネットという新しいプラットフォームをベースとしたものに組み替えられつつある。

そして労働力不足の今、キツイ職業はいとも簡単に「捨てられる」。小中学校も、教師は勤務条件がきついので希望者が足りない。それは警官も自衛官も同様だ。

新聞も読まない。テレビも見ない。投票にも行かない。これまでの社会・政治・経済のインフラ、枠組みが、若者には何ともダサく、うそっぽく、非合理で不条理なものに見える。彼らはこれに「✖✖ハラスメント」という帽子を被せて炎上させる。

Z世代には「解放」されている若者が多い。野球の大谷はもちろんのこと、スキー・ジャンプで世界最高峰の一人、小林陵侑は22年2月8日の日経で、五輪には魔物がいるのではないかと聞かれて、「ぼくが魔物だったかもしれないです」と返した。この不敵さ。もちろん、厳しい練習に支えられているのだが、世界を悠々とわたっている。

ひょっとしてこれは、学力低下を招いたとして袋叩きにあった2000年代の「ゆとり教育」のプラスの産物なのではないか? 「日本人はもっと『個』を表に出さないと世界でやっていけない。自分で考え、表現し、動いていく人間を作らなければいけない」という趣旨で始まった「ゆとり教育」は、やっと本格化する態勢が整ったかというところで、学力の低下が問題となり腰砕けになったが、この世代の先頭が社会で活躍し始めたようだ。

ただ、ゆとり教育は、落ちこぼれも生んだ。自分というタコツボに潜り込んで、少しでもさわると「✖✖ハラだ!」と言って叫びたてる人間が増えている。こうした連中は、自分たちは何でも知っている、スマホで知ることができる、と思い込んでいるが、多くの場合は既成観念や思い込みをつなぎ合わせて、ものごとを黒か白に割り切るだけだ。

「近代」の溶融

この前AIについてのズームのシンポのQ&Aで、演者に質問してみた。「日本は、AIの開発で米国や中国に伍していけますか?」と。ChatGPT(これももう古いそうだが)などIT、ATのソフト関係で、日本は貿易赤字が拡大しているので、聞いてみたのだ。

しかし若い演者はつぶやいた。「この方は国家を単位にして考えておられる。我々、開発エンジニア達は国籍を意識しない。ちょっと次の質問の方にいきましょう」と。これは筆者にとって新鮮で、「ああ、IT関係の若者はこういう考え方をするのか。米中対立も、尖閣も、関係ないのだな。そういうのはジャマなんだな」と思った次第。

近代の世界は、主権国家を基本単位として回ってきた。ところが、その国家が溶融する兆しを見せている。今後の世界で、何が基本単位として機能するのか、筆者にはわからなくなっている。

国家に加えて、「近代」を支えてきた価値観も、建前と現実の間に差があることを露呈しつつある。つまり我々が進歩の目標として掲げてきた「自由」、「民主主義」、「市場経済」は、見直しを必要としているのだ。

米国は2003年、中東に自由・民主主義を広げてやるのだと見栄を切ってイラクに武力進攻し、フセイン大統領を縛り首にしたが、その後のイラクでは自由・民主主義どころか、混乱と困窮が広がった。自由は強い者しか享受できないし、民主主義は格差の小さな社会でしか成立しないことが露わになった。そして先進諸国は今、中国に倣って半導体やEV産業に政府補助金を大盤振る舞いしているが、これは市場経済、自由競争の原則を踏みにじり、経済の活力を殺ぐものである。

「地球人」の登場

今の東京を歩いていると、不思議な気分になる。日本の先端部分は多国籍化と言うか、地球人化しつつある。以前は目立つのをはばかって、電車の中では小声で話し合っていた中国人も、この頃は本来の大声で話をするようになっている。それも、しっかりしたビジネスマン風の男がスマホで話していたりする。彼らは日本とか中国を別に意識することなく、自分のビジネスを東京の通勤電車の中でやっているだけなのだ。

金髪・青い目の外人観光客も観光地では随分傍若無人な振る舞いも見せているようだが、東京では見たことがない。彼らは、幼時から好きだったマンガ、アニメのヒーロー達の故地にやっと来ることができた喜びと興奮を漂わせ、彼らよりずっときちんとした身なりの日本人乗客たちに気を使って、それでも自由に話し合って降りていく。

こうした若い連中は、知識、意識からして、国籍がもうない。一種の「地球人」化しているのだ。そして、こうした意識と知識水準の高い連中ならば、どんどん日本に定住してもらえばいい。ただそういう時には、日本人の多くは下働き的存在に落とされているだろうが。

他にもねじれはいろいろある。企業にも嘘が多い。株式会社などと言うが、実際は仲間内に株を持ってもらったり、株主総会をできるだけ問題なしに乗り切るのが総務の腕の見せ所だったり、金融は銀行に依存して、経営指南まで銀行から得ていたり、何のために株式を発行しているのかわからない企業が多かった。

これらのねじれを、Z世代が全て解決することは期待していないが、「✖✖ハラ」でこれまでのルールを全否定することはやめて欲しい。人間の権利、自分・他人の権利、そして生活水準の一層の向上。この基本からは外れないで欲しい。

地球人、AIが作る社会はどのようなものだろう。日本はもう、見本を外国から移入するわけにはいかない。昔の教養主義はもう成り立たない。日本は自前の価値観、自己流の目標を設定して行かないといけない。