今年の夏は異様な暑さだった。京都の気温が連日、三八度、三九度と記録を更新するなか、天気予報で表示される那覇の最高気温は三一度と涼しげに見える。「そのうち沖縄に避暑にいく時代が来るんじゃないか」と軽口を叩きながら那覇空港に到着すると、当たり前だが現実はまったく違っていた。突き刺さるような太陽光線と重い潮風で汗はなかなか引かない。ただし、空気は流動的で澄み渡っている。たまたま飛行機で読んだ岡本太郎の沖縄論で、「水底のように透明で、すべてが不思議にやわらかい」と形容されていた風土が、そこにはあった。
私はゼミの学生とシンポジウムの前日に沖縄入りした。辺野古を訪れてみたかったからである。といってもこれが初めてではない。最近は毎年のように沖縄に来ていて、辺野古に行くのもこれで三回目である。
行った日は夜に花火大会があったようで、辺野古港から基地の境界まで近づくことが禁止されていた。入り口のあたりで戸惑っていると、気のよさそうな警備員が近づいてきて、基地の方に行きたいのならこっちから入りなさいと無言の合図をくれる。礼を言って基地との境界の方まで歩いて行くと、年端もいかない若い米兵が磯遊びに興じていた。フェンスには「基地司令官の許可なく下に示す水域へ立ち入る行為……は禁止されており、日本国の法令による処罰の対象となりうる」との警告文が貼り付けてある。いったい誰が、何の権限あってこのような居丈高な命令を下せるというのか。いつ見ても不愉快きわまりない光景である。
フェンス越しに見る基地はだいぶ建設が進んでいるようだった。相変わらず海風が強い。計画では、ここは普天間の機能を代替するヘリポート基地になるとのことだが、こんなに風が強い場所で果たしてヘリが安全に飛べるものだろうか。辺野古の拡張工事が終わっても、米軍はあれやこれや理由をつけて、普天間基地も使い続けるつもりではないのか。以前から、そんな嫌な疑念が頭から離れずにいた。
翌日、シンポジウムの控え室で藤原さんにその話をしたところ、私の疑念はけっして理由のないことではないとして、次の事実を教わった。昨年六月の外交防衛委員会で、当時の稲田朋美大臣は、(緊急時に米軍が民間施設の滑走路を利用できるという)普天間基地の返還条件が満たされない場合、「普天間飛行場は返還されないことになります」と答弁しているというのだ。
確認してみると、確かに大臣はそのように発言していた。「防衛省としては、そのようなことがないよう」対応していくとしてはいるものの、米国次第で、普天間が返還されない可能性があることを公の場で認めたことには変わりない。いったい、政府はどっちの味方だというのか。沖縄県民の不信感が日増しに募っていくのも無理からぬことである。
いきおい、シンポジウムでの発言にも熱が入ることになった。その内容はYouTubeで一部、公開されており、また今号で藤原さんにレポートしていただいているのでここで繰り返すことはしない。一点だけ付け加えるなら、この問題に「米軍基地を認めないのは非現実的だ」などと下らないリアリズムを持ち出すのだけは止めてもらいたいということだ。抑止力として米軍駐留が当分の間、必要なことくらい誰だって分かっている。その現実を当たり前のこととして受け流し、その背後で進行する不正義に眼をつぶるのは間違いだと指摘したいだけである。米軍基地という国防上の矛盾を一方的に押しつけておいて、沖縄の抗議の声を上から目線で嘲笑する。それが「保守」の立場だというなら、私は「保守」でなくて一向に構わない。
シンポジウムの翌日には、与那国島を訪れた。那覇から五〇〇キロ離れた離島で、石垣島より台湾にちかい日本最西端の地だ。
与那国島の岬から眺めると、周囲は無限の碧い海である。その光景を前に、私は岡本太郎の次の一文を思い出していた。
「日本人は日本の本土を内側に、一定の限界としてしか捉えていない。われわれのまわりには、幅広くひろがる紺碧に輝いた海があり、そこには充実した島々が無数につらなって、とり囲んでいる。それを肉体として掴みとっていない。日本という抽象的な観念、固まった意識から抜けだし、かつて祖先が全身に受け止めていた太陽の輝きと、南から北からの風の匂い、その充実した気配を血の中にとりもどさなければならない。」(『沖縄文化論──忘れられた日本』)
日本列島は、東西南北に広大な距離をもってひろがっている。地図だけ見ていただけでは分からない空間のひろがりは、那覇から与那国への飛行機でも、日本最西端の岬で海を見渡しても感じることができた。長い時間をかけてこの地にやってきたことで、日本列島とその領海の地理的な広大さを、少しは「肉体として掴みとる」ことができたように思う。
政治も経済も、外交も国防も、すべては日本人の「身体感覚」と、その延長としての「地理感覚」とでもいうべきものに基礎づけられなければならない。そう気づかせてもらえただけでも、今夏の沖縄行は、私にとって実り多いものであった。