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World Get Punished. People Get Wired.

「理想」と「現実」の狭間を彷徨う「平和学」

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-『日本人のための平和論』再考-(後編)

藤原昌樹

日本への政策提案-ガルトゥング氏が描く「日本のあるべき姿」

 ガルトゥング氏は「いま日本は、近隣諸国との領土問題、歴史認識問題、沖縄の基地問題、集団的自衛権の問題、自衛隊の海外派遣問題など、さまざまな問題を抱えている。それら全ての背景に、米国の世界戦略と日本の対米追従がある」として、日本に対して「I.領土の共同所有、II.東北アジア共同体、III.専守防衛、IV.対米従属からの決別」といった4つの政策を提案しています。

 「我が国が抱える様々な問題の背景に米国の世界戦略と日本の対米追従がある」との認識と「対米従属からの決別」を目指すべきであるということについては「まさにその通りである」と首肯できますが、その他の提案については、それぞれ慎重に検討しなければならない要素を孕んでいるように思えます。

 「領土の共同所有」については、前回の記事で論じたように、当事者双方の間で「領土問題はゼロサム・ゲームではない」との共通認識が成立し、信頼関係が構築されていることが必要不可欠な前提となりますが、その共通認識や信頼関係を成り立たせること自体が極めて難しい課題であると言わざるを得ません。

 「平和学」では「東北アジア共同体」(を含む「地域共同体システム」)を構築することによって「戦争に繋がる国家間での多面的な競争」を克服することができると想定しています。しかしながら、たとえ「地域共同体システム」が構築できたとしても、多面的な競争の主体が「主権国家」から「地域共同体」に置き換わるだけであり、それだけで必ず「戦争のリスク」が低減すると想定するのは楽観的に過ぎるように思えてなりません。

 また、「地域共同体システム」構想は、既存の欧州連合(EU)をモデルケースとして想定しているものと思われますが、曲がりなりにも「民主主義とキリスト教」という共通の基盤を有するヨーロッパ諸国と比較して、そのような共通基盤がないアジア地域における「地域共同体」の構築は、より困難な道程であると想定しなければなりません。

 さらには、多様な価値観と異なる歴史を有する複数の「主権国家」を、単に「空間的に近接している」という理由だけで一つの「地域共同体」にまとめてしまうことが、それぞれの「主権国家」にとって目指すべき「望ましい将来像」であるのかについて、各々の事情に応じて慎重に検討をする必要があるように思えます。

 「専守防衛」について、前回の記事では、「対米従属」を無批判に受け入れる議論や「絶対平和主義」に基づく「平和論」などと対比して、「平和学」が「極めて現実的な戦略」を提起しようとしていると肯定的に論じました。我が国の「防衛・安全保障体制」の目指すべき方向として「専守防衛」が検討すべき選択肢の一つであることは間違いありません。

 我が国の「防衛・安全保障体制」のあり方に関しては、国際社会からの度重なる警告や制裁を物ともせずに核実験や弾道ミサイル発射実験を繰り返す北朝鮮が、核兵器とICBМの技術を完成させて実戦配備をするのがもはや時間の問題であり、アメリカによる「核の傘」が機能することも期待できないという厳しい現実を踏まえた上で考察する必要があります。

 国民の間でコンセンサスを得ることが必要であり、被爆国であるということもあって国民の間に「核に対するアレルギー」が広く存在していることをはじめとして、実現するためにはかなり高いハードルがあることは承知しておりますが、私自身は「専守防衛」と「核保有」という「攻撃的防衛」(但し、予防的先制は否定し、あくまでも報復目的に限定する)の組み合わせが、我が国にとって最も効果的な「防衛・安全保障体制」であると考えており、詳細については、また機会を改めて論じてみたいと思います。

 その他、ガルトゥング氏は同書において「移民・難民」の問題と関連づけて「共同体の再構築」と「地域社会の活性化」について、E・F・シューマッハーの『スモール・イズ・ビューティフル』を参照しながら、次のように論じています。

「日本では、難民や移民の問題が人口減少や高齢化に伴う労働力不足対策という文脈で議論されることが多いが、労働力不足問題は移民に頼るのではなく自国でできる解決策に着手すべきだ」「移民に頼る方向に舵を切る前に、産業分野ではハイテク技術の更なる活用や高齢者の活用、農業分野では高齢者の活用による農業再建を考えるべきだ」
農業再建は安全保障の基本である食糧自給にも繋がり、そのためには衰退の一途をたどる農村の活性化が急務である」「その方策として、若者と高齢者をつなぎ、高等教育を受けた人々とそうでない人びとをつなぎ、農業と小規模な製造業をつなぐための協同組合を推奨する」「そこに教育的要素を加味することで、若者たちは農村での暮らしを体験し、農村の人々は若者たちを通して都市の文化に触れることができる」「社会が、過疎化した時代遅れの農村集落と、様々な機会や創造性を謳歌する都市に二分されたような時代はもう終わりに来ており、両者をミックスすることでより良い未来が開ける」「かつての日本には豊かな共同体主義が根づいており、地方を旅すると、アイデンティティ、帰属意識、近隣の人々との良好な関係、交流、交換、多彩なアイデア、平等といったものを内包する伝統的な村落の佇まいがあったが、それはいま急速に姿を消しつつある」「日本という国家がそれを容認しているように見える

 長年にわたって新自由主義に席巻されてしまった我が国において、「共同体の再構築」と「地域社会の活性化」に向けた道程が極めて厳しいものであることは否定できません。

 しかしながら、例えば、能登半島地震の被災地に対して「復興より移住を選択するべき」などと宣う我が国の政治家や言論人の言葉などよりも、よほど有益で傾聴に値する提言であるように思えます。

「理想」と「現実」の狭間で彷徨う「平和学」

 前回の記事では、ガルトゥング氏の「平和学」が「人間の可謬性」を前提にして「保守思想」と高い親和性を有していると看做し、我が国に根づいてしまった「対米従属」を無批判に受け入れる議論や沖縄に蔓延る非現実的な「夢物語」と対比して、極めて現実的な選択肢を提示しようとする「現実的な平和論」であるとして肯定的に論じました。

 しかしながら、その一方で「平和学」が、例えば、ガルトゥング氏が提案する「領土の共同所有」や彼が理想とする「地域共同体システム」構想に典型的に見られるように、「性善説」に基づく人間観や非現実的な「楽観的」に過ぎる世界観を想定していると看做さざるを得ない側面があることもまた否定することはできません。

 前回の記事で、ガルトゥング氏の「平和学」について「現実的な平和論」であるとの断定的な表現を用いたことは「いささかミスリーディングな論じ方であった」と反省し、訂正しなければならないと思慮しているところです。

 「平和学」には、現実主義的な「政策論」と非現実的な「夢物語」が混在しており、両者の間で上手くバランスを取っているというよりも、どちらかと言えば、現実主義的な側面よりも非現実的な「理想論」に傾きがちであると看做さざるを得ないように思えます。

 現実世界において「平和」を実現するために「理想」を掲げること自体は否定すべきことではありませんが、その「理想」が「『平和』の実現に寄与するのか、それとも妨げになってしまうのか」を厳しく見極めなければなりません。

 ガルトゥング氏は、同書において北朝鮮についても論じており、「北朝鮮のチュチェ思想(主体思想)について好意的に受けとめており、健全に進化発展することを願っている」とした上で、北朝鮮が核を持つ理由を「I.抑止力のため、II.攻撃されたときの反撃のため、III.核のない朝鮮半島を望んでおり、そのための交渉材料として、IV.『北朝鮮は崩壊しかけている』という欧米のメディアや政府の主張を否定するため、V.北朝鮮に対する外からの制裁や脅威が限度を超えたときに使用するため」と整理して、
北朝鮮による核保有を肯定してはいないものの、彼らが核保有を望む理由については理解を示しています。

 国際社会による北朝鮮に対する経済制裁について「この制裁はまったく逆効果である」と否定的な評価を下し、「日本のどこかの非政府組織(NGО)に、北朝鮮と直接コンタクトを取って対話し、将来の関係のあり方を探り、制裁に代わる方法を模索して欲しい」として、可能なところから平和構築に向けた取り組みを始めることを求めています。

 私自身が具体的な「北朝鮮政策」の腹案を持っている訳ではありませんが、ガルトゥング氏が提案する「北朝鮮政策」に接して、第二次世界大戦の際に、イギリスが宥和政策でドイツに対して譲歩し続けた結果、ヒトラーのナチス・ドイツの台頭を許してしまった歴史的事実を想起せざるを得ませんでした(注3)

 北朝鮮をはじめとする独裁国家に対して「宥和主義」に基づき対処することが最適解であるか否かは極めて難しい政策判断であることは間違いありません。しかしながら、少なくとも「宥和政策」が「積極的平和」の実現につながるどころか、「消極的平和」を崩壊させてしまうことに繋がり、独裁国家の国内における「直接的暴力」と「構造的暴力」の永続化に寄与してしまい、独裁国家の国民の悲惨な境遇を放置することに繋がってしまう可能性があるということも視野に入れて対処する必要があるように思います。

 「平和学」が「理想」を掲げて「積極的平和」の実現を目指しているということ自体に疑義を挟むものではありませんが、その楽観的な「理想主義」が、目指すところとは裏腹に「平和」を破壊し、「直接的暴力」と「構造的暴力」を助長してしまう危険性を孕んでいるのだということは認識しておかなければなりません。

 「平和学」について否定的な見解を書き連ねてきましたが、「平和学」が、現実世界において「平和=積極的平和」を実現するために私たちが学ばなければならない多くの知見を提供してくれていることは間違いありません。

 改めて「平和学」を学ぶ決意を新たにしたところです。

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(注3) 宥和政策 – Wikipedia

(藤原昌樹)