WGP.PGW

World Get Punished. People Get Wired.

国づくりと国民の意志とインフラと


StudentのK(35歳・公務員・茨城県)

 前号では、白水先生・藤井先生・浜崎先生の3名の対談の中で藤井先生が、精神性が高いとインフラのことを考えるというアプローチもあると述べられていたが、今回はこの点についての私見をまとめてみたい。

 インフラが大事である、という考えに私は同意するが、この同意にはある前提が必要になる。

 その前提とは、より良い社会をつくりたい、より良い活動をしたい、という意志があることだ。

 例えば、より遠くの人や地域と、より速く繋がりたい、という意志が無ければ交通インフラは不要だ。同様に、(敵わないとはいえ)自然災害に立ち向かう意志が無ければ防災インフラは不要だ。

 つまり、これ以上のインフラが必要ない、という主張には、より良い社会をつくりたい、より良い活動をしたい、という意志が無いことになる。

 もしも真面目にこの社会と向き合ったならば、インフラを除いた時の人間の可能性は極めて限定的だと気付くだろう。道具を活用しない人間が無力であるのと同様に、社会的な道具であるインフラを活用しない社会もまた無力である。

 ところで、インフラは社会の土台・下部構造であるため、人々の活動はその上に成り立つ。

 しかし、政策論ではその順番が逆転する。つまり、どのような社会をつくり、どのような活動をしたいのか、という意志があるから何らかのインフラを整備する、という順番になる。

 従って、インフラにふさわしい意志が無い人々が集まる社会では、インフラを整備する時点ではインフラに反対する。しかし、何らかの形により結果としてインフラが整備されたならば、その利便性に気付き何食わぬ顔でインフラを利用するという、手のひら返しが生じることになる。

 私はこのような国をとても身近に感じるし、このようなことに身に覚えがある。

 私には、一個人としてこれを変えたいという思いがある。

 では、何を変えるのか。それは、国民の意志である。国民が、この国の未来を創り、明日を切り拓こうとする大きな意志である。

 政府が主権者の代理人であるならば、代理活動の成果は、つまるところ本人たる主権者の意図によって決まるだろう。つまり、国民の意志である。国民の意志が公共政策の結果を決め、ひいては未来の国の姿が決まる。意志とはただの空想ではない。机上の空論に終わらず目の前の世界と向き合い、明日を切り拓く覚悟があってこその意志だ。

 このことから、我が国の可能性は、日本国民の意志にゆだねられることになる。日本国民が主権者として国づくりをしたいならば、日本という広大な空間に対応した意志が必要だろう。

 続いて、インフラを政策論ではなく現象として捉えた場合、どのようになるだろうか。

 それについて私は、インフラとは主権者の意志の現れではないかと思う。つまり、国民の「どのような国にしたいか」という意志が形となって現れたものの一つがインフラであると考える。もしも、主権者の意志から外れたインフラを整備したならば、そのインフラは早晩朽ち果てていくだろう。

 この認識が正しければ、我が国のインフラの状況の推移を見れば、我が国の国民の意志の状況の推移も読み取れるだろう。つまり、インフラは良くも悪くも我が国の状況に対する客観的事実を残す、ということだ。

 これはつまり、インフラが適切に機能し続けるためには、そのインフラに見合った国民の高い精神性が必要であり、反対に、国民の精神性が良質ならば自ずとインフラも良質な状態になる、と言えるだろう。

 これらを大局的視点で捉えるならば、国の発展と、国民の高い精神性と、良質なインフラは一致する、という結論になる。

 ここで、冒頭の「精神性が高いとインフラのことを考えるというアプローチもある」という藤井先生の言葉との関連が明確になる。

 もし高い精神性を持った人は自らの由を自ら定めるならば、その由に基づく行動を最大限に発揮しようとし、必然的にインフラへと意識が向かうだろう。

 我々は主権者だから政府を活用する。我々は本質的に、生まれた時から自由だ。自由だからこそ、政府を活用してインフラを整備する。自由のためのインフラだ。

 私は、我が国が国民の大いなる意志により大国となることを、我が国の主権者の一人として望み、共感を願う。

 反対に、小さな意志により小国となることを、主権者の一人として否定する。

 以上をまとめると、次のようになるだろうか。

「日本人よ、大志を抱け。」


北澤孝典(農業・信州支部)

 元旦に能登半島を襲った大地震。被害はあまりにも甚大で、世界にも大きなショックを与えている。富山県で大学生活を送った、元七尾市民の自分にとって、身近な人々が危険に晒されている現実は心痛で、一刻も早い復興を心底待ち望んでいる。

 太平洋に浮かぶ島国の我が国は、ジパングとして知られる日出る豊かな地としての反面、見るからに不安定な地形故の、自然災害との深い関わりも、歴史の運命であると思われ、衣食住など様々な文化に、その厳しさを乗り越え磨かれてきた特徴が見て取れる。

 しかしながら、能登大震災の一連の報道を見ている限り、我が国が経験してきた自然災害に対する強靭性は、残念ながら感じられない。元住民の被害妄想から申し上げているのではなく、コロナ禍や近年の国際紛争等の混乱を前にしても、国として何も必要な手を打てなかったという経験から生じる不安の表れである。

 新型コロナウィルス感染症の大流行には、各国が国の威信をかけて被害の最小化に努めており、中国はたった数日間で大病院を新設、アメリカ産のワクチンが地球上を駆け巡り、ヨーロッパ各国はロックダウンの強制と並行した経済的補償、リモート技術の開発等、為政者が責任を持って取り組んだ公共政策が施された。

 翻って我が国、権力者の強制力と責任を持って行われた独自の政策など、休校以外に私は知らない。毎日決まった時間に感染者の人数を発表する専門人に、フリップ片手にワンフレーズポリティクスに心酔する政治家。結局のところ、我が国の感染症対策は、国民の自粛と善意に委ねられたわけだ。

 中国がどのように大病院を作ったか、アメリカがどうやってワクチンを開発したか、ヨーロッパの国々がどういう意思決定で政策を立案したか、具体的な過程を私は知らない。ただ、国家という共同体が、権力と責任を持って社会政策を執り行ったことは事実であり、良し悪しは歴史が採点すれば良い。

 自衛隊や消防が、がれきの下の生存者を発見するニュースが広く流布され、視聴者が一喜一憂している。自衛隊は国家の安全保障、消防は各市町村における身近な防災。それでも、日本で頻発する自然災害のエキスパートであるかのように映るかも知れないが、専門外に駆り出されている、いわば借り物だ。現場の善意とでも言うべきか。

 平成の地方自治体は、企業経営のようにキャッシュフローを重視され、合併(M&A)を繰り返した。結果として、能登地域の自治体数は激減した。有事の時の避難所や配給所が自宅から遠くなるのは、優秀な公務員でなくても、容易に想像が出来たはず。

 内陸側を走る高速道路も新幹線も、地震発生翌日にはほぼ完全に復旧したが、能登半島内の交通網は、いまだに寸断された状態の所も多い。経済的合理性を最優先にして、公共交通に金儲けを求め続けてきたことと無縁ではないだろう。

 衛生面等、環境が悪化しているにもかかわらず、新たな避難所も設けられないどころか、中規模な土木工事すら行われない現実が、極寒の能登を襲っている。

 地震発生翌日の1月2日、私は、大学時代の居候先と友人宅に向かうべく、出来る限りの物資と燃料を積み、息子と能登半島に向かったが、規制緩和の恩恵でピラミッドのように聳え立つ大規模なパチンコ屋と、リモートでリアルタイムの博打が打てる公営ギャンブルに、多くの大衆が群がっている現実を目の当たりにした。

 問題は、マグニチュードが大きい自然災害でも、腐敗した政治でも、株価最優先の自由主義経済でもなく、有権者とは名ばかりの、過去や将来の社会について何ら関心を示さない大衆にあるのだと自戒した。


〈編集部より〉